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【ゲームキャスターリレーインタビュー】第2回:アール(前編)マイクを握り続けるのは「コミュニティーがずっと続いてほしい」から

日ごろゲーム大会の実況や解説などで活躍する、ゲームキャスター。彼らが語るゲームや選手の話は聞く機会が多いのに、彼ら自身の人となりや、彼ら自身の意見については、公の場で訊ける機会は少なかったのではないだろうか。

そこで、ファミ通では取材機会が少なかったゲームキャスターひとりひとりに、キャリアの歩み、ゲームキャスターという仕事について、そしてesportsについての意見を聞きたいと思う。なお、次のインタビュー対象も指定してもらう形式のリレーインタビューを採用している。

第2回は、アール氏。『ストリートファイター』シリーズといった格闘ゲームから、『ドラゴンクエストモンスターズ スーパーライト』公式など、多数のイベント・放送にて実況を務める。

2015年12月、ゲーム配信プラットフォームTwitchへ入社。2018年には、テレビ東京で放送中のゲームバラエティ番組『勇者ああああ』にも出演し、活動の幅を広げている。

今回は氏の歴史を紐解くとともに、ゲームキャスターという仕事、実況解説者育成プロジェクト‟ACTP”の活動について伺った。エピソード満載の内容となったため、対談は前後編に別けてお送りする。

前半は、格闘ゲーム、そしてウメハラとの出会いから、実況者として活動を始めたきっかけ、Twitch入社の経緯について。後編は後進育成プロジェクトや、現在の国内esports事情について伺った。

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ゲーム配信プラットフォームTwitchスタッフ/ゲーム実況者。
『ストリートファイターZERO3』、『ストリートファイター4』ではガイ使いとして名を馳せた。エンターブレイン(現Gzブレイン)アルカディア編集部スタッフとして在籍し、のちにフリーランスとして活動。ライター活動ののち、Twitchへ入社。コミュニティーマネージャーとしてパートナーシップ面を担当している。

ウメハラの出会い、そして全国大会をみずから開催

――岸大河さんからのバトンで、第2回はアールさんになりました。そもそも、岸さんと交友があるとは思っていませんでした。

アール 岸さんとは、東京ゲームショウやC4LANでお会いしています。Twitchスタッフとしてイベント会場に行くので、お会いすることも多いですね。

――なるほど、そういった経緯だったのですね。そういえば、先日行われました格闘ゲーム大会‟CEO 2018”の実況もお疲れ様でした。藤村選手の『ストリートファイターV アーケードエディション』部門優勝に、かずのこ選手の『ドラゴンボール ファイターズ』部門優勝で、見どころも多かったかと。(取材日時は7月上旬)

アール 大会イベントが世界的にも多い現在、‟CEO 2018”はほかの大会に比べて毛色が違いますよね。プロレス色が強いですし、特殊な魅せかたをするから‟CEO”ファンも多い。CEOだから出場する日本人も結構多いんですよ。

CEO”は、クラシックゲームに対するリスペクトが高い大会なので、『ストリートファイター II』のトーナメントが行われたりします。だから大貫晋也が行くんですよ(笑)。

おそらく、運営の方が古くから活動しているプレイヤーやクラシックゲームをリスペクトしてるんだと思います。だからこそ盛り上がるし、古参プレイヤーが出場するのかと。

――その中でも、ひと際活躍していた日本人選手は誰でしょうか?

アール 藤村君はすごかったですよね。今回、ウィナーズファイナルとグランドファイナルで藤村君が戦ったXiaohai選手は、とてもポテンシャルあるプレイヤーですが、今シーズンの藤村君の勢いはすごかった。かなり仕上がっていましたね。すごく強かったんですよ。

――急成長を遂げたと。

アール 藤村選手はスポンサー環境が変わったこともあり、序盤から今年は気合いが入っているように見えました。”CEOでのXiaohai選手との一戦は今一番勢いのある藤村 vs. 誰もが認めるポテンシャル最強のXiaohaiという構図で実況していました。ここでXiaohai選手に勝ったら本物だなと。それが蓋を開けてみたら、Xiaohai選手に完全勝利だった訳です。

Xiaohai選手と藤村選手はベクトルが違う戦いかたで、身体能力が高い人に対して、理論で戦うような試合でした。おなじ山に登るのに全然アプローチが違うんです。ですので、今回のCEOはとくに見ごたえがあって大変おもしろかったですね。

――ありがとうございます。では、さっそくアールさんのお話しに移ろうと思います。まずはアールさんのビデオゲームに出会ったころのお話しをお伺いしたいです。

アール 僕らの時代は、アーケードゲームが主流でした。ファミコンはもちろん子どものころに遊んでいました。アーケードゲームはお金を払わないとプレイできませんから、子どもの僕にはなかなかプレイできませんでしたね。

そんな中僕が初めてアーケードゲームに触れたのは、北海道の旭川に住む祖父母を訪ねたときです。冬に旭川に行きましたが、のどかな場所で子どもには少し退屈な場所だったと思います(笑)。

どこか楽しい場所はないかと、近くの雪を20分ぐらいかきたどり着いたレンタルビデオ屋さん行ったら、アーケードゲームが置いてあったんですよね。見つけた瞬間、「いまならやれるかも!」って思いました。それまではお金もないし、勝てるはずはないから人のプレイを見ているだけでしたね。でも、旭川なら誰も見てないし、ばーちゃんからお金貰ってるし(笑)。旭川でひとりでプレイしたのが、始まりでした。

――それが、『ストリートファイターII』?

アール 『ストリートファイターIIダッシュ』ですね。旭川には1週間ほど滞在して、コンピューター相手にかなり練習をしました。勝てる自信がついたので、帰ってきてからも、少ない小遣いでときどきプレイしていましたね。

――アーケードゲーム育ちなんですね。家庭用ゲームの思い出はあまりないのでしょうか?

アール アーケードゲームをプレイするようになったら、家庭用ゲームはほとんど遊ばなくなりましたね。それまでは、RPGの有名作は一通り遊んでいましたが。

とにかく、旭川でアーケードゲームに触れて以来、ずっと格闘ゲーム漬けです。高校に進学し、家から学校までの通学途中、乗り換えの駅の近くにあるゲームセンターが県内で有名なところでして。そこでもかなりプレイしましたね。

――あるあるですね。高校生になると、行動範囲が広がり、新たな出会いもあると。

アール そのゲームセンターでゲーム友だちができたら、もうお終いですよね(笑)。楽しすぎて楽しすぎて!

――門限ギリギリまでゲームセンターにいると。そういう人は私の時代にも見かけました。

アール いや、そうではないんですよね。僕の立場から言ってしまっていいのか微妙なところですが、お弁当もって「行ってきまーす!」と家を出ます。家族はてっきり登校したと思いますよね。ですが、ゲームセンターの10時開店前に到着して、アーケードゲームをして、お弁当を食べて、そしてまたアーケードゲームをします。

――ん? 学校には、あまり行かなかったのですね(笑)。

アール 出席日数が足りる程度に登校しました。体育だけは授業を受けないといけないので、それだけのために学校に行くときもありましたね。

――習い事の月謝をゲームセンターに使ってしまった人もいますね。

アール あらゆる小細工を使って、お金を捻出するんです。教科書代、靴代、そのほかもろもろ。でも、もらえるお金はたかが知れているんで、とにかく負けないようにプレイするんです。ごはんは、当時60円だったマクドナルドのハンバーガーばかりでした。帰りの電車賃を残さないといけないんですが、それすら使ってしまうこともありました。10kmの帰り道を徒歩で帰ることもざらです。

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――ええ……。

アール 僕は進学校に通っていましたが、そのころ勉強する意味を見出せなかったんです。勉強よりも、ゲームセンターにいる人に囲まれて、いろいろな価値観の中で生きたほうがおもしろいなと思ったから。言いかたが悪いですが、ダメな大人やダメ学生に囲まれていたので、「学校にはこんな人おもしろい人たちはいない」と思いながら過ごしていました。

――学校よりは、刺激は多いですもんね。

アール でもそんな生活をしたので、大学入試に失敗して浪人生となってしまいました。その時は、ものすごく反省しましたね。そこで、通っていたゲームセンターから遠ざかるように、千葉県・柏市の予備校に行くことにしました。「俺は人生をやり直そう」と心を新たにして新生活に臨む予定でしたが、もちろん柏で流行っているゲームセンターに行ってしまって(笑)。

――本末転倒では(笑)。

アール ええ(笑)。柏ではまた新たな出会いがあり、そこで全国の強いプレイヤー、いわゆる‟ウメハラ”の話を聞くことになるんです。「ウメハラというヤツが全国大会で優勝して、その様子がテレビで流れるらしい」と。

その当時は、『ストリートファイターZERO3』がゲームセンターに導入され始めたころで、‟2~3ヵ月後に行われる全国大会に優勝した人は、アメリカのチャンピオンと戦える”という内容のビラが配られていました。つまり、「アメリカ旅行ができるじゃん!」って舞い上がりましたね。

――目的は、アメリカチャンピオンと戦うことではなく、旅行ですか(笑)。

アール でも、僕は出場しませんでした。どこかひねくれていたので、「俺はまぁ、別に出れたらそれなりに結果残せるけど、いいや」みたいな(笑)。

――中二病! 出場しないのは、もったいないかと。

アール その大会には僕の知り合いが出場したのですが、上位に行くことなく負けたと聞きました。そして、その大会でウメハラが優勝する訳です。先ほどお話ししたとおり、ウメハラ優勝の様子がテレビで放送されてその存在を目の当たりにしました。それを見て、「本当に強そうだ」と思いましたね。ウメハラは、アメリカのチャンピオンにも勝っていますから。

当時の僕は、本当に強いプレイヤーのことを知らない。地方で遊んでいても、ほかの地域のプレイヤーや都心のプレイヤーがどのくらい強いのか分かっていませんでした。そんな時、友だちが「ウメハラがいる高田馬場のゲームセンターに行ってみようぜ」と誘ってくれたので、お手並み拝見とばかりに高田馬場に足を延ばしたんです。その日はたまたま、ゲームセンターにウメハラしかいなくて、僕と友だちでかなりの数を対戦しました。

でも、ウメハラといったら、メインキャラクターを使う訳でもなく、練習のサブキャラクターで対戦するんです。勝負は五分五分でしたが、試合中に練度が高まっていくんですよ。気づいたら、帰りの電車賃しか残っていなくて、その日は打ち止めでした。

――結局、ウメハラの本気は見れなかったと。

アール はい。帰りの電車で、じわじわと悔しさがこみあげてきましたね。ウメハラが使いこなせているキャラクターではないのに、地力の差を痛感するような対戦だったと。「俺よりウメハラのほうが強い」と認識せざるを得なかった訳です。結果を超えるような敗北感を味わったのは、それが初めてでした。

そこで、「高田馬場のゲームセンターは、まだ俺の知らない世界がある」と思い、高田馬場のゲームセンターに通うことを決意する訳ですが……! 埼玉の家から高田馬場に通うのは、それなりに交通費もかかるので、都内の大学に進学することを心に決めました。

――そんな志望理由、聞いたことないですね。

アール ですが、これがきっかけで勉強に力が入りましたよ。この頃、ウメハラというプレイヤーにたまたま知り合えた訳ですが、当時はいまのようにインターネットやSNSは普及していないので、強いプレイヤーの情報が伝わりにくかったです。
全国にどんなプレイヤーがいるのか分からないし、コミュニティーも自分の目に入っている世界だけで終わってしまいます。そのほかには、ゲーメストやアルカディアといったゲーム雑誌の情報が頼りでした。

そう感じた矢先、通っていたゲームセンターのイベントが終わってしまい、情熱の行き場を失ってしまいました。そこで有志で集まって会議をして「俺らで大会やればいいや!」となりまして、高田馬場のゲームセンターでランキングバトルという小さなコミュニティーイベントを毎週開催しました。

――なるほど。強いプレイヤーが集まる大会を開催して、プレイヤー情報を仕入れようということですか。

アール 噂が噂を呼んで、本当に強いプレイヤーがぞくぞく来てくれるんです。秋葉原の超強いロレント使いが来たり、町田の強いプレイヤー、関西から参戦する人もいました。僕らにもプライドがあって、「絶対優勝させねぇ!」と燃える訳です(笑)。

――それが、コミュニティーイベントの走りかもしれませんね。

アール ‟ランキングバトル”は有志で運営しており、ゲームセンターの協力もいただけたので、筐体を1台借りて対戦を回す仕組みで行っていました。ですので、一見ただゲームしているだけなんです。でも、イベントらしさを演出したいと思い、マイクでアナウンスすることにしました。イベントが開かれていることを知らない一見さんも来ますし、彼らにとってはただゲームしているように見えるから、ここでアナウンスを入れたら何をしているか分かるかなと思いまして。

――ウメハラさんや、強いプレイヤーの名前は知っていても、顔は知らない人だっていますもんね。

アール プレイヤー名と顔が一致しないことも自分で経験していたので、初めて来た方に、「このイベントがどういうものか、このイベントに関わっているのは誰なのか」を伝えました。

わざわざ高田馬場のゲームセンターまで足を運んでくれるプレイヤーもいたので、ここでの最先端の情報や攻略をお土産として持ち帰ってもらい、プレイヤーのレベルも上げて欲しいという思いがあります。そういった経緯があり、僕がマイクをもってアナウンスなどをしていくことになりました。

――それが、実況の原点ですか。

アール あくまで、一見さんのためのアナウンスなので、すごいコンボが出たら、「あー! このコンボはすごい!」とか、「今日、こいつ女に振られたから多分弱いっすよ」など、ちょっとしたパーソナル情報とか入れていました。

――コミュニティーイベントだからこそできる煽りですね(笑)。

アール ほかにも、ある程度名の知れた知り合いのプレイヤーが幅利かせているのが鼻についたら、その人を煽るスタイルでしたね(笑)。

一方で、一見さんは立ててあげました。初めて参加したにもかかわらず、褒められたら嬉しいじゃないすか。初めてイベントに参加する方の大抵は緊張している。でも、彼らは高田馬場まで足を運んだから、下手なプレイは出来ない。ですので、よいところだけ拾って実況してあげる。気持ちよく対戦してもらって、またイベントに足を運んでくれたらいいなと。

――そのコミュニティーイベントが実を結んだ結果は何でしょうか?

アール この活動の延長として、僕とウメハラ、柏木という3人が中心となり勝手に第2回全国大会を実施することにしました。当時20歳で、全然社会経験もない子どもが、ゲームセンターではなくて大きい会場を借りて大会を開こうと。

――大学生で、運営資金の準備も大変だったのでは? どう工面されたのでしょうか?

アール 一言でいうなら、気合ですね。アルバイトもしていましたから。僕は両親に、「大学の時間は青春だから、勉強だけじゃなくて、好きに時間を使いなさい」と言われていたので、時間は有意義に使えたと思います。

でもその代わり、「お前にやる金は1円もない」と言われましたね(笑)。自分の遊ぶ金は自分で稼いで来いということです。バイトの掛け持ちで、空き時間にゲームセンターに行く日々が続きました。もちろんそれだけでは賄えない額だったので協力的な先輩方からの資金援助なども受けました。

――アルバイトで、全国大会の資金を貯めたと。その全国大会はどこで実施したのでしょうか?

アール 千葉県市川市文化会館です。市川君(仮)という千葉県・市川市出身の知り合いがいて、「うちの文化会館は広くて安く借りられるよ」と教えてくれたんです。こういった施設は、市民の人が借りる場合は通常より安くなるようで、市川君のおかげで、110万円~15万円で借りることができました

――箱(会場)だけ借りるなら、安いですね。アーケード筐体の用意はどうされたのですか? 基盤だけ買ったとか?

アール いえ、アーケード筐体を2つ購入しました。当時、20万円ほどだったと記憶しています。『ストリートファイターZERO3』の基盤と、ブラストシティ(筐体)かアストロシティ(筐体)のどちらかを2台購入しました。

大会では、搬入も苦労しましたね。前日搬入をしないといけないので、軽トラックを二日間レンタルしたりと、準備段階で何が必要なのか分かるんです。それとは別に、全国大会の告知もしないといけない。

――そうですね。当時はまだインターネットで告知することもできないですから。

アール 簡単に告知する方法がなかったので、デザイン系の学校に通っていた知り合いにかっこいい告知ポスターを作ってもらい、関東中のゲームセンターを車で回ってビラを貼りました。

また、各地のゲームセンターの常連と対戦をして、そこから交流を広めることもありました。みずから足を運んで対戦をして、大会について広めていく。こういった活動をウメハラたちといっしょに続けていましたね。

――その活動が実を結んで、全国大会に人が集まってきたと。

アール でも、オフィシャルの全国大会(第1回)は日米対決を行っていたので、「俺たちもアメリカからチャンピオンを呼ばなくちゃダメだろう」となりまして。何かの伝手でアメリカチャンピオンと連絡が取れたので、「渡航費は出すから大会に出てくれ」とお伝えして、日本まで呼びました。

――お呼びできたんですか?

アール Alex Valleと、John Choiというアメリカ1位と2位の選手が来日してくれました。これで、さすがに文句言う奴はいないだろうと(笑)。最終的には、参加者は300~400人ほど集まり、当時としてはかなり大規模なコミュニティー大会になったと思います。当時、こういったコミュニティー大会の前例はほぼなかったので、運営には苦労しました。

一説では、この大会に参加したAlex ValleとJohn Choiが「自分たちもやろう」と呼びかけて、海外でのコミュニティーイベントも盛んになったとか。

――それがEVO(アメリカ最大級の格闘ゲーム大会Evolution)開催へのきっかけかもしれませんね。

アール そこまでは分かりませんが、そうだとうれしいですね。

――ところで、EVO JAPANを例に出すと‟日清”がスポンサードしていますが、当時は協賛してくれる企業もなかなか見つからなかったのではないでしょうか?

アール むしろ、ゲームメーカーさんの目に怯えながらやっていましたね。第2回全国大会を開催したけど、怒られるかも……と。当時は名前や顔を公開しているゲームメーカーの人は少なくて、天上人のような認識でした。そんな人たちに怒られないように活動をしなくては、という感覚が強かったです。

大会の参加費は取ってもいいのか、大会のビデオを作って売ってもいいのかなど、とにかくグレーな部分が多くて苦労しました。ですので、ゲームメーカーさんに怒られない範囲として、僕らに儲けが出ない範囲で活動していました。

――全国大会は第3回、第4回と続いたのでしょうか?

アール 僕らは第2回全国大会以降、別の格闘ゲームを始めましたので、実施していません。でも、『ストリートファイターZERO3』が好きでプレイし続けていた有志が、続けていきました。

――大会の流れなどは受け継がれていったと。

アール だからこそ、格闘ゲームはほかのゲームと違ってコミュニティーが強くなったと思います。運営から進行まで全部一通りできるコミュニティーになり、ほかのゲームジャンルとは違う進化を遂げていったと思います。

――第2回全国大会以降、イベントに関わってはいないのでしょうか?

アール その後は、実況などを行っていました。「ランキングバトルが好きだ」と言う人がありがたいことに多かったので、新作格闘ゲームが発売されたら、また大会を開いたり。

『CAPCOM VS. SNK』 が登場したときも、「これはアツイ、やるぞ!」と思ったので、知り合いと協力して大会を開き、そこで実況を行いました。

――ランキングバトルでマイクを持ちMCや実況といった活動を行ってきた。そういったイベントで下積みされてきたと思いますが、当時ノウハウも持っていない中、マイクを持つのは大変だったのでは?

アール 僕の場合、昔から人前で話すのには向いていたようで、問題ありませんでした。勉強もたいしてできなかったのに、学級委員や生徒会に入っていましたし。

――センスがあるんですね。

アール ただ、実況をやるとなると、どうしても運営側に回ってしまうので、大会に参加をしても集中できず勝てなくなるんですよね。ですので、誰よりも情熱を持って格闘ゲームに取り組んでいるが、大会では思うように活躍できないということを身を持って感じました。

――好きなゲームの実況を行いプレイヤーとしても参加するが、結果が出ないとなると、もどかしいですよね。

アール 自分のプレイヤーとしての楽しみを犠牲にして、みんなのために運営に情熱を向ける必要があるので、‟運営をしている人は偉い”という気持ちが生まれましたね。

――確かに、実際に運営側を経験してみないと、裏方の苦労は理解できないと思います。

アール 言葉で伝わるものではないと思います。でも、実際に運営をやりたがる人が少ないというのは、いまでも抱えている問題ではないでしょうか。

僕はお金を生み出さない程度に活動をしていたので、どうしてもボランティア活動に近いものになってしまい、いつかは続けられなくなってしまうことも理解していました。「趣味の延長だから仕方がない」という感覚も、当時僕らの中にありましたね。自分たちが就職するころには、しぼんでいくだろうと。

しかし、コミュニティーの力も弱まってきたところで、“闘劇”というエンターブレイン主催による格闘ゲーム全国大会が2003年に開催されることになりました。そちらで、実況として参加することができました。

――ちなみに、その後は実況ではなく、選手として活動したことはないのでしょうか?

アール もちろんありました。『CAPCOM VS. SNK 2』の全国大会に出場してプレイしましたね。上位まで残れませんでしたが、満足感を得ることができました。その後は、‟闘劇”主催者から実況のオファーが来ましたが、プレイヤーとして参加したい気持ちもあり、ギリギリまで迷いましたね。

――最終的に、‟闘劇”の実況として参加した理由は何だったのでしょうか?

アール 自分が実況をやらなかった場合の候補をお聞きしたら、ほとんどそのタイトルをプレイしていない人だったからです。それを知ったとき、プレイヤーとして輝きたいという気持ちを割り切って、運営側に回ろうと決意しました。

それに、闘劇開催前にいくつかの試合に出場して運よく大きな結果を出すことができて、プレイヤーとしての満足感は得たこともあると思います。「自分はもう裏方でいいかな」という思いが少しばかり芽生えていたかと思います。

自分が結果を出して優勝するよりも、「コミュニティーがずっと続くほうが好きだな」と思えたのが大きな要因です。闘劇でマイクを持つようになってからは、自分の立ち位置を考えて、勝つためのゲームはやらなくなりました。

――自分の結果よりも、‟コミュニティーのため”という思いが強かったと。

アール そうですね。3~4年ほど闘劇で実況をさせていただき、その後はエンターブレインのアーケードゲーム専門月刊誌『アルカディア』に編集者として就職しました。

――編集者としての経験は、いまも活かされていますか?

アール 編集者になる前は、ゲームや雑誌に対して抱いていた「もっとこうしたらいいのに」という気持ちが、自分が作る側に回ったときになぜそれができないのかを、すごく理解できました。

理想を具現化するためには、自分自身の力が必要だということもすごく感じて。自分なりにゲーム業界への理解が深まり、いい経験になりました。いまの仕事にも当時の経験が活かされています。大会運営から実況、編集、ライティングもこなせるようになったことも大きいです。

ですが、27歳で結婚をすることになりまして、生活環境や収入などを判断したうえ、退職することになりました。

――ゲームキャスターや大会運営の仕事1本で生活していくのではなく、そういった理由で退職されたのですね。

アール むしろ結婚をして退職をした際、燃え尽きたのか、ゲーム離れをしました。そこからは子育てをして、格闘ゲームができなくても、充実した生活を送っていました。俺の趣味、子育てでいいや(笑)みたいな。

――ですが、現在ゲーム業界に戻ってきたと。その理由はなんでしょうか?

アール ニコニコ動画から、配信文化が発達・流行してきたことが要因ですね。毎年開催される闘劇も、家でパソコンから見れますから。「いい時代になったな」と思いました。

その当時は、ウメハラも麻雀や介護をやっていた時期で、みんなやり尽くしたという気持ちから、ゲームから離れていた時期です。自分たちが育ったコミュニティー文化からではなく、配信文化から‟せんとす”さんといった有名実況者が登場した時期でもあります。

そんなとき、『ストリートファイター4』が発売され、しかも家庭用版は、インターネットで対戦ができるという話で盛り上がりました。

――アールさんをはじめ、格闘ゲーマーが『ストリートファイター4』で戻ってきたと……?

アール その通りです。最初は、お金を入れていないのに、家でほかの人と対戦できるなんて「ありえない」と思いました。でも、ちゃんとできたんですよね(笑)。それで、古くからの格闘ゲーマーは『ストリートファイター4』でたくさん帰ってきました。僕も含めみんな病気なんです。常人の生活はできなかった(笑)!

――(笑)。

アール また、ゲームセンターに導入された『ストリートファイター4』では、NESiCA(アーケードゲーム専用ICカード)が採用されていました。昔から格闘ゲームをやっていた僕らからすると、NESiCAは夢のカードです。昔なら、自分のキャラクターのカラーと動きで、個性を出していまましたが……。

――「あー、このキャラクターの動きはウメハラだな」みたいな感じでしょうか?

アール その通りです。でも、『ストリートファイター4』なら、名前や勝率がゲームに反映されていて便利だなと。そうなると、やっぱりプレイしたくなりますよね。

それに、『ストリートファイター4』がアーケードで流行ったタイミングで子どもが生まれて、妻が育児のために1ヵ月実家に帰省することになりまして……。

――となると、やるならいましかないと……。

アール 「俺はこの1ヵ月のあいだ鬼になる」と決めて、めちゃくちゃプレイしましたね。毎日、出社前にコーヒーを飲みながら全国ランキングをインターネットで見ると、それはもう知っている名前がいろいろな県でランカー入りしていて、「みんなやっているんだなぁ」としみじみ思いましたね。「全国大会が開かれたら、同窓会になるぞ」と感じました。

――『ストリートファイター4』では、ランカー入りしていましたよね?

アール ヴァイパーというキャラクターの全国ランキング1位まで登り、最終日に「子育てに戻ります」とコメントを残して封印しました。その後は、家庭用版のインターネット対戦を家族から許されたので、仕事と子育てをしながら対戦ができる、最高の環境になりましたね。

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実況者として戻ったきっかけは東日本大震災

――『ストリートファイター4』が流行っていた当時、表舞台に実況やプレイヤーとして戻る気はなかったのですか?

アール 当時は思いませんでした。ですが、2011年3月の東日本大震災が起こり、生死についてリアルに感じたと妻に話しをしたら、「子育てもがんばったし、そろそろ自分の好きなことをやってもいいんじゃない?」と言われて。

また、東北のほうにいる友人が気がかりだったので、物資を送っていたのですが、「実際に様子を見てほしい」と言われ現地に行くことになりました。

――実際に足を運んだのですか!

アール 妻には止められましたが、仙台地方に行きました。4月に友人と行って、津波の被害にあった地域を間近で見て、自分の中でチャリティーに対する意識がとても強くなったのを覚えています。

そんなときに、参加費、寄付金は全額日本赤十字社の活動資金として寄付するTOPANGAチャリティーカップ”が開催され、実況に誘っていただいたんです。チャリティーに対するモチベーションも高かったので、家族を説得して実況に復帰となりました。の、TOPANGAャリティーカップ”では、実況と解説に分かれて行われました。

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写真は2016年8月6日に日本赤十字社東京都支部にて開催された“TOPANGAチャリティーカップ”

 

――少し前に話題になりましたね。なぜ日本は、実況と解説に分かれているのかという。

アール これ、おそらく僕の責任もあると思います。子育てをしていた時期に試合配信を見て、「ひとりでマイクを持っている人が実況と解説をやるのは大変だよなぁ」と感じていまして。実際に自分でも大変だと感じていたので、もうひとり解説専用の人がいれば実況できる幅も広がると考えました。そこで、チャリティーカップで活躍した人を実況席に解説役として呼びたいなと。

――解説役として呼ぶのには、ほかにも狙いがあったのでしょうか?

アール 無名だった人にもスポットライトを当てられるのが狙いです。東北のプレイヤーが、がんばって解説役で出れたらいいなと思い、提案しました。恐らくそこから、実況者と解説者のツーペアが日本のesports業界では採用されるようになったと思います。

――TOPANGAと言えば、ニコニコ生放送で有料番組として試合を配信していた‟TOPANGAリーグの印象が強いです。

アール ゲームセンターに行けば観戦できるトッププレイヤーの対戦を有料にし、‟ショーとして見せる”という試みです。12日間の試合を3500円の通しチケットを払って視聴する仕組みでした。そこに実況者として参加するということは、いままでの実況スタイルではダメだと、自分なりに考えましたね。どう実況するべきかとか、実況者としてなにをするべきかというのを真剣に悩む。格闘ゲームがエンターテイメント・ショーとして見られるものかを問われる場所に自分は関わるんだと、ひしひしと感じました。

――有料になったことで、実況者としての在り方を再認識できたと。

アール 実況としてのプロ意識が芽生えたのは、これがきっかけです。それまでは、「俺に頼んだんだから、やることには文句を言わせない」くらいの考えで、好き勝手にやっていたのですが(笑)。独りよがりだった考えに、初めて‟見られる”という感覚が芽生えました。

そこでまず考えたのは、自分が視聴者だったら格闘ゲーム大会の配信は開幕挨拶やゲーム紹介、大会概要見なくていいやと思う。配信開始15分後に配信チャンネルを開くことが多かったんです。コレに自分なりの解決策を出すことにしました。

――具体的には、どういった施策をされましたか?

アール はじめから人が見たくなるためにはどうするべきかを考えて、メチャクチャ変なTシャツを着ていくとか、とにかく“ヒキ”を求めました(笑)。なにをするべきか定まらないまま第1回開催が迫り、「さすがにこれ、開幕叫んだほうがいいかな?」と思いまして。そこで、‟TOPANGAリーグは叫んで始まる”流れが生まれました。でも、3日目は叫びませんでしたね。

――叫ばなかったのにも、理由が?

アール 「なんでコイツ叫んでいるんだ」というコメントがあったので、実際に止めてみたんですよ。そうしたら、「なんで叫ばねぇんだ」と言われて、やっぱり叫んでいいじゃんと(笑)。

そんなことがあり、開幕に一発叫ぶというのが予定調和として受け入れられたので、じゃあそれを茶番にしようという流れになって。ディレクターの方と打ち合わせしていくうちに、オープニングは茶番で遊ぶというのがひとつの文化になっていきました。

そのうち、「今日は何をするんだろう」とオープニングから待機してくれる流れができたと思います。それでも最初は、「なんでお前が目立とうとするんだ、お前の番組じゃない」とコメントで指摘されることがありました。でも、クライアントであるTOPANGAがやってくださいと言う以上はやるべきだなと思い、何を言われてもやり続けました。

それに、試合数が多く、リーグ戦なので同じ組み合わせもある。長い時間どう飽きさせないで見せるかという点は、トライ&エラーをくり返しました。

――TOPANGAリーグによって、ゲームキャスターとしての実力も上がっていったと。

アール すごく成長させてもらいましたね。

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写真は、TOPANGAコンセプトマッチ in 闘会議2016

 

――TOPANGAリーグを経て、ゲームキャスターという仕事に対して見方が変わった点はありますか?

アール 変わった点は多すぎて何とも言えません。たとえば、浜辺にある石が丸いのは、何万回も波にさらされて丸くなったというのと同じです。はじめは自分も粗削りな岩だったと思いますが、TOPANGAリーグを通して丸く磨かれたというか。TOPANGAリーグやさまざまなイベントを通して、このころは年間で5000試合ほど実況しています。それが何年か続くと、聞きやすさや言葉選び、求められているものをしっかりと認識できるようになっていきました。

また、TOPANGAリーグで最初は「じゃあこの試合行ってみましょう」と普通のテンションで言っていたのが、アツい試合で興奮したときは「いってみましょー!」叫んでしまい(笑)。そのうち、受け入れられて定着していきました。狙って作ったのではなく、会場の雰囲気から自然発生したものだからこそ受け入れられて、いきなり聞いた人もしっくりきたのかなと思います。

――実況をしている最中、いちばん気をつけている部分や、意識している点はありますか?

アール 実況者として大きなこだわりはないのですが、自分のポリシーとして‟自分が好きなゲームでマイクを持つ人はそのゲームへの愛と情熱があるべき”、と思っています。ですので、自分がマイクを持つのであれば、そういった準備ができている状態でいたい。

PLAYERUNKNOWNS BATTLEGROUNDSの実況としてお声がけいただいたこともありましたが、自分がそこまでの準備をできない状況だったのでお断りをしたこともあります。ほかにもお声がけいただくことはあるのですが、これまではお断りしてきました。

――仕事となると責任を持ってお届けしたいという気持ちですかね。

アール 単純に言ってしまうと、ユーザーやコミュニティの方に、「なんでこいつが。全然だめじゃん」と思われたくないんです。自分がユーザー視点に経ったとき、視聴者を納得させるだけのやりこみや準備をしておきたいですね。最近思うことは、自分の納得よりも、状況に合わせてできる準備で可能な限り対応するスタイルも構築しなきゃダメと感じるようになっています。

――なるほど。では、これまでたくさんのゲームキャスターを見てきたと思いますが、とくに気になる方はいますか?

アール 基本的に僕が人と自分を比べない性格なので何とも言えないですね。たとえば、ほかの人をすごいなと思ったとしても、その人を真似ることはできないし、自分にできることは限られていますから。そもそも、実況の本質に答えはないと思っていまして、ゲームのおもしろさ、魅力、醍醐味を上手に伝えることができればそれで正解だと思います。誰が正しいという話ではないと思います。

――相対的評価がある世界ではないと。

アール みんながいいと判断したものがいい。なら、そう言われるためには自分はどうするか、ということでしかないと思っています。でも、自分では思いつかないような新しいことを実践している方を見ると、やはり刺激は受けますね。

――では、Twitchへの入社は、新たな刺激を求めた結果でしょうか?

アール Twitchに入社した経緯はまた別です。これについての話が長くなりますが……。

当時はゲームに携わって実況一本で食べていくのは難しい時代だったので、いろいろな活動をしていました。ライティングやタレント的な活動もする中で、実況者として認められるためにはどうすればいいのかを自分なりに考えていました。

結論として、海外に認められたほうが早い。日本国内だけでどれだけがんばっても、自分の評価に限界があると思い、海外で活躍したら日本の方も認めてくれると思って、海外で評価される道を目指しました。

――たしかに海外で成功した日本人は、国内でも目を向けてもらえますね。

アール 海外で認められるために自分に何ができるかを考えたとき、ちょうどレッドブル様が格闘ゲームに興味を示されていた時期でした。同時期に、格闘ゲームのプロプレイヤーがさまざまな海外大会に出場しているころだったので、「海外の大会をリポートします。写真を撮って記事を作りますので、渡航費をください」というプレゼンを、レッドブル様にしました。

――え? 直接プレゼンを行ったと。

アール はい。ありがたいことに「おもしろいですね、やりましょう」と言っていただけて、海外取材のサポートをレッドブル様にしていただきました。

とにかく海外大会ではたくさんの人と交流して、写真もたくさん撮って。各地に行ってさまざまな形で知り合いを作って、自分は日本で格闘ゲームのコメンテーターをやっているということも伝えていきました。幸いストリートファイター系の日本の試合はほとんど自分が実況していた時期だったので、知ってくれている人が多かったのはありがたかったです。大体、1年ほどそういった活動を続けていましたね。

――かなりアクティブに活動しましたね。

アール そういった仕事を続けていた矢先、当時EVOの中継を請け負っていたドワンゴ様から、「ドワンゴで、今年のEVO中継はできないかもしれない」と突然言われてしまって。そこで、TwitchがEVOの中継をやりたいと名乗り出ていたので、ドワンゴ様に不義理がないように話を通して、TwitchのEVO中継に参加しました。Twitchとはそこからのお付き合いで、東京ゲームショウのTwitchブースに演者としても出演しました。

その流れで、東京ゲームショウ後に「Twitchスタッフになりませんか」と声をかけていただきました。海外活動が実を結び、国外にも名前が知られていたのが大きかったのが決め手となったようです。

――海外取材の成果がここで出てきたのですね。

アール ただ、Twitchに所属してしまったがゆえにTwitch以外の番組に出られないのは、僕としては腑に落ちないところがありますし、なによりそれまで継続的に仕事を依頼してくれた方々に迷惑がかかるなと。

ですので、所属は無理だと伝えたら、実況者としての個人活動が認められたうえでTwitchへの入社が決まりました。アメリカではよくある話らしいので、すんなり認められましたね。

――どういった契約を結んでいるか興味がありましたが、Twitch側の配慮があったからですか。

アール Twitch側には感謝しかありません。ただ、ここから地獄の日々のはじまりでしたね……。平日はTwitchのスタッフ業務、週末はイベント、個人でもイベント……。「あれ、いつ眠ればいいんだ?」と思うこともしばしばあります(笑)。

――Twitchでの仕事は、具体的にどういった内容になるのでしょうか?

アール パートナー様との打ち合わせやTwitchイベントへの出演ほか細かなことですね。

自由にやらせてもらえていますが、つねにどういった動きがTwitchに必要か、自分自身の価値を上げるためにはどんな活動が必要かを考えています。24時間ベクトルは完全にTwitchに向けて動いていますね。個人でいただいた案件も、Twitchを通して放送させてもらえないか提案したりすることもあります。

――なるほど、アールさんにとって、Twitchに入社してより活発に活動が行えると。

アール そうですね。自分の利用価値といいますか、貢献できているならいいなと思います。

――これまでのお話しを聞くと、着実にキャリアアップをしているように見えますが、挫折を感じたことはありますか?

アール TOPANGAリーグですが、自分をすごく成長させてもらえたイベントで恩返しもしたいと思っていましたが、どうしても出れない状況だったので2017年は実況として出ることはできませんでした。辛かったですが、こんな気持ちになる機会は、なかなかないと受け止めました。ポップコーンとコーラ買ってきて、一日目からしっかり目に焼き付けることにしました。

これを挫折と言ったら「お前どんだけ贅沢なんだ」と思われると思いますが……。アメリカ横断ウルトラクイズが、福留さんから福澤さんなるときみたいな(笑)。「このイベントってこの人が出ているよね」というイメージを定着させられたにも関わらずそれに応えられない、やりたいだけじゃ通らないという問題が、降りかかってきました。

――それはどう乗り越えたんでしょう。

アール いつか来るもの、試練として受け入れて、それを受け入れることがむしろ成長だと思いましたね。自分でも思うほど、いろんなことをやりすぎてると自覚もありました。なにかの席に出られなくなるというのは、あって当然、然るべき。覚悟はできてたものが、ついに来たという感じでした。分かってはいましたが、実際に経験すると想像以上に辛かったですね。

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(後編に続く)

ここまでで10000字を超えてしまったため、続きは後編で。後編では、後進育成プロジェクトや、現在の国内esports事情について伺っている。

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